アートフェアというものを初めて見に行った。

アートフェア

 

 3月末、東京国際フォーラムでのアートフェアに行った。たくさんのギャラリーがそれぞれイチオシの美術品を出品。

 現代アートあり、古伊万里などの骨董品もあり、書もあれば、ビデオアートもある。もちろん、一番多いのは油絵などの絵画。

 それにしても、決して安くはない入場料を払ったのだが、なんだか蚤の市に来た気分なのだった。

 写真について言えば、「IMA」を発行するアマナグループが大きく一角を占め、迷路のような不思議な展示構成が行われていた。キツキツに詰め込まれた写真たちは、写真のアートとしての価値と、層の厚さを伝えたが、キツキツすぎて、やはり蚤の市な気分を味わったのだった。別の一角には写真専門のギャラリーが共同で大きなブースを形成していて、写真に対する注目度の高さを感じさせた。

 蚤の市のような会場を歩きながら、芸術とは何のためにあるのかを考えた。そこに並べられているものは、どれも値段を見ると、驚かされるものばかりだった。しかし、たいして目の肥えていない者から見ると、がらくたと紙一重といってもおかしくないのだ。

 生活上の何か便利に役立つわけでもなく、技術の発展に寄与するわけでもなく。生活に潤いを与えるものだと言えばそうなのかもしれないが、それにしては値段は半端なく、驚かされるものばかりなのだ。おそらく購入するのはコレクターと呼ばれる人たちなのだ。

 芸術とは、コレクターの所有欲を満たすためのものなのか?結局、芸術は富裕な人々の戯れと富の誇示のためにあるのか?芸術家は何のために自己表現を目指すのか?

 芸術はどんな分野であれ、芸術家はおおげさでなく自分の身や魂を削って作品を作り出す。それに値段をつけるということは、ある意味ではとても嫌なことなのではないだろうか。蚤の市的に並べられているのは、果たしてうれしいことなのか、悲しいことなのか。

 コレクターに所蔵された作品は多くの人に見てもらう機会を失う。芸術は誰のためにあるのか?一方で、コレクターが芸術家を育てるのも事実である。芸術はいつも矛盾をはらむ。

 作品を愛してくれるコレクターに所蔵されるならまだましで、投機目的で購入される芸術品は芸術家が込めた魂など理解されないだろうし、マネーロンダリングのために購入されていく芸術作品だってある。

 蚤の市的なアートフェアをうろつきつつ、微妙に醒めた気分を味わってしまった。美術館や芸術祭でアートを楽しむというのとは全く違うのだ。それは、単に私が作品を購入するだけの経済力を持っていないからなのか、まがりなりにも写真作品を作る側の人間だからなのか。例えば自分の作品がアートフェアで飾られて値段をつけられて販売されるとしたら、それはうれしいのか、うれしくないのか。もちろん、うれしいことなのだろうが。「写真を売るということがどういうことなのか、どんな作品が売れるのか、まず買ってみればわかる」とよく言われる。矛盾は私自身の中にもありそうである。

 アートフェアの入り口には世界的アーティスト杉本博の写真作品をプリントしたスポーツカーが展示されていた。芸術的実用品であるスポーツカーと現代アートの融合である。しかし、杉本博の世界的作品が、金持ちの道楽のためのものに堕してしまった感があった。

 

 写真はオリジナルプリントがアートとして販売されることもあるが、写真集という形で表現されることもある。これも販売されるものであり、出版社とかいろいろ関係する人が増える分、より商業的になる。しかし、写真集という形式はより作家の伝えたいことを表現できるものだ。そこには作家の人生とか価値観とか魂とかといったものが表れる。それは、魂を売ってることなのか?いや、そうではない。写真集になって、それを見て感動してくれる人がいて、共感してくれる人がいて、のちのちの世代まで受け継がれていくことが出来れば、それは本望なのだ。オリジナルプリントの素晴らしさも価値もよくわかるのだが、その価値は市場によって弄ばれるリスクもある。

 芸術って何だ?何のためにあるんだ?

 

 アートフェアでロバート・メープルソープの写真のポストカードを購入した。それらは、今キッチンの壁に飾られている。

 こんな風にポストカードとして作品が見ず知らずの日本の小さな家で飾られてることをメープルソープはきっと喜ぶだろう。

2013.4.7