ソフィ カル
「最後のとき/最初のとき」
ソフィ・カルの展示が原美術館で行われている。初日に早速見に行った。
ソフィ・カルは私にとって、いつもよくわからない芸術家だ。どこがどう芸術なのか、といつも感じるのだ。また、彼女の取り上げるテーマが私の個人的な事情と共鳴する部分もあって、いつも気になるのだ。
はじめて、ソフィ・カルの作品を見たのは授業においてだった。彼女が探偵を雇って自らを尾行させた作品であったり、誰かを尾行して作品化したものだったり。また、拾った手帳からその持ち主を推測する過程を新聞連載にするとか。プライバシーの侵害なんじゃないか?とか、ふざけているにしては悪質なんじゃないか?とか、とにかくとても不快だった。これのどこが芸術なんだろう。写真においては世界的な賞であるハッセルブラッド賞まで獲得する価値がどこにあるんだろう。
彼女の作品の特徴は、どこまでが本当でどこまでがフィクションなのかわからないということだ。芸術がある種の真実を追い求めるものだとしたら、彼女の作品は最初から最後まで虚と実の判別が出来ない。その曖昧さが彼女の1つのテーマでもある。だから、彼女の作品を観ると、日常の中で身に付けて来た常識とか価値観を攪乱されるのだ。
今回の展示は以前の作品に比べるとずっと理解しやすく、感動さえ覚える。まったく不快感はない。生涯一度も海を見たことがない人々を海に連れて行き、海を見た時の表情やリアクションを映像作品にしているものが「最初のとき」。中途視覚障害者となった人々に最後に見たものは何かを問い、その光景をソフィが写真化している「最後のとき」。見ることとはどういうことか、美とは何か、を問いかけている。
「最初のとき」では海を見て泣いている老人の姿もある。しかし、それは海を「見た」から泣いているのか。初めて「見た」ことの感動なのか。展示の一番最初の部屋には「盲目の人々」という作品から一点だけ展示されていた。生まれつき目の見えない人に美のイメージとは何かを問いかけたもので、「海」と答えた人についての作品だ。一度も見たことがなくても、海を美しいと感じるのだ。それは美は「見る」ことに依存するものではないということだ。私たちの生活は自分たちが自覚する以上に「見る」ことに依存している。新聞、雑誌、書籍、テレビ、インターネット、パソコン、それらを私たちは「見る」。美術館ではお静かにと言われつつ、美術品を「見る」。しかし、視覚だけで感じているのではない。聴覚、触覚、嗅覚など五感を働かせて感じている。海を美しいと言う生まれつき目の見えない人も、初めて海を見て泣いた老人も視覚に頼って感じているわけではなく、全感覚で感じているのだ。美は視覚だけで感じ取るものではない。
一方、「最後のとき」は辛い作品だ。事故や事件に巻き込まれたり、病気で視力を失った人たちが、最後に見たものを語る。それらを昨日のことのように鮮明に語る人もあれば、最後に見た夫の顔の記憶がだんだん薄れていくことを嘆く女性もある。視覚による認識とは何なのだろう。視力は無くなっても、鮮明に記憶されているものもある。視覚による記憶が薄れた分、夫の顔を手で触って、記憶をしている女性もある。夫はイケメンだったと語る女性は、手で触ってもその夫の顔をイケメンだと認識する。視覚に頼る美とは何なのだろうか。視覚に頼らなくても美は感じられるのだ。
ソフィ・カルの作品はいつも問いかける。そして考えることを求める。答えは提示しない。ただ、問いかけてくる。
2014.4.8
http://www.haramuseum.or.jp/generalTop.html
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