フラッシュモブについて
先日、NHKのクローズアップ現代で、「フラッシュモブ」というものを取り上げていた。不特定多数の人がネットなどで呼びかけ合って、ある日ある時間ある場所に集まって、イベント的なことを行うというものだ。この現象自体は知っていたが、フラッシュモブと呼ぶことを初めて知った。
日本では2ちゃんねるなどのオンラインで繋がっている人たちが、「オフ会」と称してリアルな場所に集まるという動きが2000年代から起こっているが、これもフラッシュモブの範疇だろう。都心に映画マトリックスのスミス役の扮装をした人たちが大量に集まった「マトリックスオフ」というのが有名だ。
インターネットは、それまでにはあり得なかった人々のつながりをつくった。それは薄いものかもしれないが、そのつながりが生み出すものに驚かされる。
お台場でフラッシュモブ
http://www.youtube.com/watch?v=Fg6riVwmLXg&NR=1&feature=fvwp
マイケルジャクソンの命日にお台場で「Beat it」を踊りだす人々。マイケル役らしきメインダンサー以外はみんな普段着。さすがに中心となる10人ほどのメンバーは本物ダンサーのように思えるが、途中から参加する100人ほどの人たちは、おそらくはマイケルが好きで集まった不特定多数の人たちだ。曲が終わるとアッと言う間もなく解散。何事もなかったかのように散っていく。リアルな場を共有するのはその時かぎりで、つながりは薄いままなのだ。
九州新幹線のCM
http://www.youtube.com/watch?v=UNbJzCFgjnU
九州新幹線のCMは2011年度、カンヌ国際広告賞で金賞を得た素晴らしいものだが、これも一種のフラッシュモブだ。新幹線に向かっていろんな扮装をして手を振る人たち。広告会社による「やらせ」はなく、集まってくれるよう呼びかけただけだそうだ。個性的で楽しそうなお祭り騒ぎぶりは、どれも手作り感があって人々のオリジナルだ。20年前の日本人なら考えられないことだ。目立つことを嫌い、自己表現は苦手というのが日本人の傾のはずなのだが、全く逆の姿が表れていて、感動的だ。このCMの中で「あの日、手を振ってくれてありがとう。笑ってくれてありがとう。1つになってくれてありがとう。」というナレーションが流れる。この言葉は、フラッシュモブを楽しむ人たちの価値観をそのまま表しているとも言えるかもしれない。
インターネットは、人々をフラットに結びつけた。富裕な人も、そうでない人も、有名人も、無名の人も、権力を持つ人も、持たない人も、人気者も、シャイな人も、外国人も、日本人も、インターネット上ではあまりされない。リアルな社会の力関係のようなものを持ち込むのは、むしろ無粋というものである。そして、それがリアルに登場するフラッシュモブでも、人々の関係性はフラットなのだ。マイケルジャクソンの「Beat it」を踊る人たちが、みんな普段着なのも面白い。
東北支援チャリティーイベント 羽田空港フラッシュモブ
http://www.youtube.com/watch?v=7daxgc4v6kY
2012年の年末に羽田空港で行われた第九のフラッシュモブは、フラッシュモブの形態を取っているが、フラッシュモブではなく演奏会に近い。しかし、やはりみんな普段着である。演奏会用の特別ステージがあるわけもなく、次第に楽器を手に集まってくるオーケストラの人々は全員がプロの演奏家というわけでもなさそうであり、吹き抜けロビーの階段などに見物人に混じって歌いだす合唱隊の人々もやはり普段着だ。第九はポピュラーな合唱曲なので、たまたま一緒に歌いだした見物人もいるだろう。そのフラットな関係性はフラッシュモブの特徴である。
フラッシュモブは現代アートだと言ってもいいのではないだろうか。IT革命によって、アートは特別な天才だけに作り出せるものではなくなり、誰もがクリエイティブに作品を作り、発表するようになった。誰もがアーティストだ。美術館はアートを一部の所有者の手から、一般大衆の所有物に変えたが、IT技術は誰もがアーティストであることを可能にした。
フラッシュモブが与える感動は、パフォーマンスアーティストが与える感動と違わない。参加する人々がそれをアートと捉えていなくても、その行動はアートと呼べるだろう。
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通りすがり (木曜日, 05 12月 2013 14:25)
俺は大嫌い
嫌悪すら感じる
「みんなと一緒に」「いつもつながっていたい」
なんで?
seks telefony (火曜日, 31 10月 2017 23:56)
nieskierowywanie
strona www (土曜日, 18 11月 2017 01:07)
stereomikrometr