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国立美術館の「アーティスト・ファイル」展で志賀理江子の「螺旋海岸」を見た。今話題の作品だ。畳くらいの大きさに引き延ばされた写真が会場にこれでもかというほど詰め込まれていた。あまりに狭くて作品をよく見ることも出来ず、よさがわからなかった。しかし、先日ある書店で「螺旋海岸」の写真集を発見。美術全集のような大型本であった。
写真集で見ると、その内容が迫って来て、すごさがわかった。せんだいメディアテークでの展示は見に行っていないが、きっとそこでの展示ならもっとすごかったんだろう。
「すごい」という表現がいいのかどうかわからないが、「すごい」としか言いようがない。
志賀理江子は6年前から北釜に住み、地域の行事などを記録しながら作品づくりをしている。せんだいメディアテークのHPには、以下のように紹介されている。
「この展覧会は、自らの生活環境や経験と写真表現を一体にしようと探求してきた志賀の現時点での成果を提示するものです」
「螺旋海岸」を見て、柳田國男の民俗学を連想した。柳田は各地の民間伝承や風俗を実際に訪ね歩いて集め、民俗学をつくりあげた。それと同じことを彼女は写真で行っている。不運にも東日本大震災での津波の被害を北釜の人々とともに受けたことが、この作品に凄みを与えている。津波が無ければ、この作品はもっと違う表現であったかもしれない。
ホラー映画のような不気味なイメージが随所に織り込まれている。震災から2年が経つが、東北の人々の悲しみや痛みは、今も深く残っていて、それをまざまざと見てしまう。海から帰って来た死者たちのようなイメージ、生きているものに絡み付いている死者のイメージ、むしろ全ては亡くなっていってしまった人々の姿なのかとも思えるほどであり、織り交ぜられる巨大な岩のイメージは、作品全てが墓地の光景であるかのように思わせる。
震災以来、目にする東北の写真の多くは被災地の惨状を写したものか、悲しみにも負けずに明るく頑張っている東北の人々の姿であった。人々の心の奥深い部分に刻み込まれてしまったもの、しまい込まれているもの。実際にそこに生き、ともに苦しんだ人だからこそ、この表現が可能、もしくはゆるされる。
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